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戦後70年に向けて:いま靖国から/40 生き永らえた命令者
毎日新聞 2014年07月26日 東京朝刊
「父も自決すべきであった」
陸軍特攻を総指揮した第6航空軍司令官、菅原道大(みちおお)中将は戦後38年生き永らえ、95歳の天寿をまっとうした。
次男の童謡作曲家、故深堀道義氏は、それから18年、父の人生を考え詰め、自分も75歳の老年に達した2001年に本を書き、あえてこのような見解を世に表した。
父の生前は問題を避けていたが、没後、特攻遺族から「お父さんを絶対に許せない」とののしられ、真剣に向き合うようになった。
深堀氏の妻は「夫は義父を心から敬愛していました」と語る。遺族の怒りは無理もないが、戦後56年たっても尊父の戦争責任を総括しなければならないと決意した司令官の息子の苦渋もまた、いかばかりであっただろう。
第6航空軍は特攻生還者を福岡市の振武(しんぶ)寮に隔離し、参謀が「なぜ死なない」と責め立てた。
公刊戦史にも出ていない施設だが、戦後58年過ぎて記録作家、林えいだい氏(80)の執念の取材により、実態が明るみに出た。
寮の管理者は、菅原中将の部下である倉沢清忠少佐。戦後は一橋大を卒業し、勤めた会社の社長に栄達して03年病没した。享年86。
生還者の報復を恐れ、80歳まで実弾入り拳銃を持ち歩き、自宅には軍刀を隠し持っていた。
それでも「特攻は志願だった」と言い張り、慰霊祭など特攻の顕彰に熱心だった。
林氏は東京都内の倉沢氏宅を初めは半ば強引に、半年余りで都合4回訪ね、のべ20時間以上のインタビューを敢行した。
福岡県・筑豊地方の林氏宅に残る録音テープには、今日流行する特攻賛美のきれい事とは裏腹な、送り出した側の本音があけすけに語られている。
例えば、学徒動員の特別操縦見習士官に比べ少年飛行兵は「12、13歳から軍隊に入っているから洗脳しやすい。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、小遣いをやって国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃう」などと証言している。
そんな暴言・放談がたくさん残る。
当初取材を拒んだ倉沢氏は、4度目には自分から林氏を招いて大いに語り、直後に倒れて世を去った。初めて重い荷を下ろしたのか。
誠の哀悼から死者を思い、魂を問い、霊性を聞くのなら、命じた者たちの応答は欠かせまい。今の靖国に、祭られた死者たちと生き残った者たちの対話はあるか。=次回は29日掲載<文・伊藤智永/写真・荒木俊雄>
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無防備な状態で放置されている日本の原発 福島原発事故で露呈した“アキレス腱”
2014年08月07日(Thu) 北村 淳
広島と長崎が核攻撃を受けた日が近づくと、福島第一原発事故を原爆攻撃とオーバーラップさせて、原子力発電所は核兵器のようなものだといった論調が浮かび上がってくる。しかしながら、このような比喩は、若干正しい点はあるが、決して正確な比喩とは言えない。
核兵器は、強烈な核爆発により発生する衝撃波、熱波、放射線によって攻撃目標周辺を広範囲にわたって瞬時に破壊することを目的とした兵器である。結果として、核攻撃を受けた地域には放射性物質が拡散して放射能汚染を引き起こすこともあり得る。
(広島・長崎の場合、空中で爆発した原爆が超高温だったので放射性物質の大半が瞬時に気化してしまった。そのため、福島第一原発事故よりは放射能汚染の程度が低かったとされる)
だたし、核兵器はあくまで核爆発による破壊が目的であり、放射能汚染は副作用ということになる。
放射能兵器になりかねない原子力発電所
核兵器と違って、放射性物質を拡散させて放射能汚染を引き起こすことを目的とする兵器を「放射能兵器」あるいは「放射性物質拡散装置」(RDD)と呼ぶ。厳密には放射能兵器には様々な種類が存在するが、「ダーティーボム」と呼ばれる装置が放射能兵器の代名詞となっている。
広範囲にわたって放射性物質を撒き散らす強力な放射能兵器は製造が困難であり、通常は狭い範囲を汚染させる放射能兵器をテロリストなどが使用するおそれがあるとされている。
また、強力な放射能兵器を軍隊が手にして敵を攻撃した場合、攻撃した敵地が放射性物質により汚染されてしまい、自軍自身も進撃できなくなってしまうため、通常の国家間戦争では価値の低い兵器と考えられている。そのため、正規に放射能兵器を装備している軍隊は見当たらない。
もし、敵地の原子力発電所を軍事攻撃して放射性物質が撒き散らされ、福島第一原発事故のような深刻な放射能汚染が引き起こされた場合、敵の原子力発電所は超大型放射能兵器としての役割を果たしたことになる──それも、敵が自ら用意してくれた自爆兵器ということになるわけである。
したがって、敵地に侵攻したり占領する計画がない軍事作戦にとっては、敵の原子力発電所に対する攻撃は価値が高いと考えられなくもない。
極めて頑丈な原子炉
原子力発電所を軍事攻撃して放射能兵器による攻撃効果を引き起こすと言っても、決して容易なことではない。厚さ2メートル程度の強固なコンクリートで覆われている原子炉を破壊するとなると、大変な攻撃戦力が必要となると考えられていた。
もちろん、戦術核爆弾で攻撃するのが理想的であるが、それならば原子力発電所を攻撃する必要がなくなる。わざわざ原子力発電所を攻撃するからには、通常兵器による攻撃でなければ意味をなさない。したがって、強力な通常兵器による破壊手段を送り込んで攻撃する困難な作戦が要求されるのである。
実際に原子炉を軍事攻撃した代表的事例は、イスラエル空軍がイラクの原子力開発施設を空襲した「バビロン作戦」である。
1981年6月7日、6機のイスラエル空軍F-15戦闘機の護衛を伴ったイスラエル空軍F-16戦闘機8機は、それぞれ2発の2000ポンド爆弾を搭載してイスラエルを発進した。サウジアラビア上空を横切り(領空侵犯)超低空飛行を続けてイラク上空に達したイスラエル空軍機は、バグダッドの南方タムーズの核施設上空に殺到し、原子炉めがけて16発の2000ポンド爆弾全弾を発射した。14発が原子炉を直撃し、原子炉は完全に破壊され廃墟となった。
ただし、結果的に14発の2000ポンド爆弾で原子炉は木っ端微塵になったが、実際のところ2000ポンド爆弾を何発打ち込めば原子炉を完全に破壊できるのかは、特定できなかった。
そのため、この作戦以降も、巡航ミサイルの弾頭(500~1000ポンド爆弾級)が数発直撃したり、弾道ミサイルに搭載してある通常弾頭(2000~4000ポンド爆弾級)が直撃した程度では、そう簡単に原子力発電所の原子炉は破壊されないと考えられた。長距離ミサイルの発達によっても、原子力発電所攻撃は“割の良い攻撃目標”とは見なされていなかった。
福島第一原発事故で“アキレス腱”が露呈
ところが、福島第一原発事故において、原子力発電所の原子炉それ自体は極めて強固な構造物で覆われていても、外部電源供給システムや使用済み核燃料貯蔵プールなどは軍事攻撃に極めて脆弱であることが、誰の目にも明らかとなってしまった。
原子炉建屋の基本的な構造(出所:東京電力ホームページより)
軍事攻撃により、強固な原子炉を覆う建造物の外部に設置されている電源供給システムや制御システムが破壊されてしまうと、津波や地震によってそれらのシステムが破壊されたことと結果は変わらないことになる。したがって、福島第一原発事故により引き起こされた放射能汚染が再現されることになる。
それよりもさらに深刻なのは、使用済み核燃料貯蔵プールが破壊された場合である。使用済み核燃料プールは、原子炉建屋内の原子炉格納容器の上部に位置している。そして、原子炉建屋は極めて頑丈な建造物であるが、屋根だけは軍事攻撃に対処できるよう頑丈に造ることはできない仕組みになっている。
したがって、屋根部分からミサイルや爆弾が突入して使用済み燃料貯蔵プールを破壊してしまう可能性は十分想定できる。
使用済み燃料貯蔵プールが破壊されると、高レベル放射性廃棄物である使用済み核燃料棒が貯蔵プールから飛び出して大気中に飛び散る可能性がある。
それは福島第一原発事故の数倍の惨事をもたらすことになる。大気中に燃料棒が飛び出すと、周囲の人々は即死するという。また、汚染処理用ロボットの電子回路も作動しなくなってしまう
。したがって、原発周辺地域は人も機械も近づけない死のエリアと化してしまう可能性がある。
このように福島第一原発事故によって、原子炉を破壊せずとも、より“ソフトターゲット”を攻撃すれば、原子力発電所は“受動的放射能兵器”となってしまうことが、一部の原子力関係専門家の常識から国際的な一般常識となってしまったのである。
日本の原発は“受動的放射能兵器”
日本には営業中の原子力発電所が17カ所(原子炉49基、建設中原子炉2基)と建設中の発電所が1カ所(原子炉1基)それに4カ所の発電所で解体中の原子炉が10基ある。
ところが原子力発電所に対する軍事攻撃は小規模なテロ攻撃しか想定されておらず、原子力関連施設が存在する道府県警察警備部に設置された原子力関連施設警戒隊が担当しているのみである。
それらの中で、専従部隊として編成されているのは、解体中を含めて5カ所の原子力発電所(原子炉合計14基)を担当する福井県警察原子力関連施設警戒隊だけである。もちろん、ミサイル攻撃や空襲といった本格的軍事攻撃への防護策などは取られていない。
要するに、日本の原子力発電所は、ミサイル攻撃や爆撃といった軍事攻撃に対しては無防備な状態で放置されているのである。
このような状況では、日本の原子力発電所はまさに「軍事攻撃を歓迎します」と言わんばかりの無防備な“受動的放射能兵器”と見なさざるを得ない。
さらに悪いことに、手薄な防備態勢に加えて、現在も日本に軍事的脅威を加えている中国軍と北朝鮮軍は日本の原子力発電所を射程圏に収めた通常弾頭搭載長射程ミサイルを多数保有している。
例えば、中国の東風21C型弾道ミサイル(100基以上保有)、東海10型ならびに長剣10型巡航ミサイル(1000基近く保有)は日本全土の原子力発電所の原子炉建屋や電源建屋それにコントロール施設をピンポイントで攻撃可能である。また、北朝鮮の改良型スカッドD(50~100基保有)の射程圏内には3カ所(玄海・伊方・島根)の原子力発電所が入っている。
日本各地に点在する原発。赤い円は原発から100キロ圏内を示す。
人民解放軍の各種長射程ミサイルを用いれば、日本各地に点在する全ての原子力発電所を一斉攻撃して“日本自身が用意している”超大型放射性物質飛散装置を起動させることが可能である。
このような対日原発徹底攻撃を実施した場合、日本の多くの地域に放射性物質が拡散し、日本には人が住める地域が少なくなってしまう可能性すらある。
中国の対日攻撃の目的が、かつてローマがカルタゴを完全に滅亡させたように、日本民族を滅ぼし日本の土地を荒廃地と化すのが目的ならば、対日原発徹底攻撃はうってつけである。
しかし、そのような目的ではない場合、人民解放軍が保有している対日原子力発電所攻撃能力は、放射能汚染という深刻な脅威をちらつかせての強硬外交の最後の切り札になりかねない。
すなわち、日本の原発が破壊されて放射能汚染地域がつくりだされる以前に、日本政府を屈服させ、中国の核心的利益に関する主張を日本政府に受け入れさせることも可能になる。
外交交渉の段階では、いくら軍事攻撃の可能性により日本が脅迫されていたとしても、アメリカが日本のために中国を軍事攻撃することは絶対にあり得ない。
原発防衛態勢の構築が急務
アメリカでの9.11同時多発テロや、福島第一原発事故などの教訓から、アメリカやNATO諸国それにロシアや中国などでも原子力発電所を各種軍事攻撃とりわけ長射程ミサイル攻撃から防衛する方策が進められている。
しかしながら、日本では原子力発電所に対する地震や津波などの自然災害の影響に関しての議論は盛んになされているものの、軍事攻撃に対する議論はいたって低調である。
原子力発電所の災害に対する安全性に関する議論、原子力発電所の再稼働の是非を巡る議論、そして原発そのものの存続に関する議論などが活発に展開されることは当然の成り行きと言えよう。
しかし、福島第一原発事故で放射能汚染の惨状を身をもって経験している日本国民が、なぜ原子力発電所に対する徹底した防衛態勢強化を要求しないのか不思議としか言いようがない。
原子力発電所の安全性に問題があろうがなかろうが、再稼働しようが閉鎖になろうが、原発そのものが廃止される運命になろうがなるまいが、現に日本には“受動的放射能兵器”となり得る原子力発電所・原子炉が多数存在するという事実は短時間では変わらない。
われわれは、即刻、原子力発電所を長射程ミサイルなどの本格的軍事攻撃から防衛する方策の構築を開始しなければならない。
引用元。 |
2014年8月10日 |
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栄養補助食品、サプリメントにはまだ見ぬ「副作用」がある。
医師である私がこれらを飲まない理由。
忙しいとついつい頼りがちな栄養補助食品やサプリメント。あれやこれやと食事に気を付けなくても、手っ取り早く足りない栄養が補給できるなんて、こんなに便利なものはありませんよね。しかし、医師である私はこれらの栄養補助食品やサプリは何があっても決して口にしません。なぜならそこには未知なる副作用が隠されているからです。
国民の半数以上がサプリ利用経験あり。
安易に信用すると恐ろしい結果に…
食べ物の栄養素なんてよくわからないし、病気ではないから薬はちょっと……。だからお手軽なサプリメントで栄養補給―ー忙しいと「手っ取り早く簡単」なものについ走りがちです。
有難いことにドラッグストアには、棚いっぱいに様々な種類のサプリメントが勢ぞろいしています。以前、ある患者さんから「サプリメントをたくさん飲んでいるのでお腹が減らず困っている」という笑い話のような笑えない訴えがありました。
2009年に国立健康・栄養研究所が行った調査では、国民の半数以上にサプリメントの利用経験があり、幼児の約15%がサプリメントと考えられる濃縮物を与えられてているというデータが報告されています。ここまでサプリメントが普及した要因には、サプリメントは健康食品の一つと考えられている時代背景があるのではないでしょうか。
しかし、驚くことなかれ、実は、健康食品という言葉には明確な定義はありません。ぼんやりとした「健康に何らかの良い効果が期待できる食品全般」が、今の時代のサプリメントの立ち位置です。
国から機能表示を許可されているものは、「特定保健用食品」(いわゆるトクホ)と「栄養機能食品」だけで、それ以外は“自称”健康食品となります。少し乱暴な言い方になりますが、発売する人が「これは健康食品です」と言えば、それはもう健康食品になるのです。
続きはこちら。 |
2014年8月10日 |
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時代の風:サル化する人間社会=京都大教授・山極寿一
毎日新聞 2014年08月03日 東京朝刊
◇低下する共感や連帯--山極寿一(やまぎわ・じゅいち)
人間以外の動物にとって、生きることは食べることである。しかし、それを実現するには、いつ、どこで、何を、誰と、どうやって食べるか、という五つの課題を乗り越えねばならない。現代の科学技術と流通革命は、その多くを個人の自由になるように解決してきた。
24時間営業のコンビニエンスストアや自動販売機。車や飛行機などの輸送手段や、インターネットを通じた通信手段。電子レンジやファストフードなどの調理や保存などの技術。これらは私たちに、いつでも、どこでも、どんなものでも、好きなように食べることを可能にした。
しかし、技術によっては変えられない課題もある。それは、誰と食べるか、ということだ。もちろん、移動手段の革新によって、遠くに住む知人や親族に会うことができるようになった。だが、誰と食卓を囲むかは、昔も今も個人の自由裁量によっては決められない。
古来、人間の食事は栄養の補給以外に、他者との関係の維持や調整という機能が付与されてきた。いやむしろ、いい関係を作るために食事の場や調度、食器、メニュー、調理法、服装からマナーにいたるまで、多様な技術が考案されてきたと言っても過言ではない。
どの文化でも食事を社交の場として莫大(ばくだい)な時間と金を消費してきたのである。それは効率化とはむしろ逆行する特徴を持っている。
サルの食事は人間とは正反対である。群れで暮らすサルたちは、食べるときは分散して、なるべく仲間と顔を合わせないようにする。数や場所が限られている自然の食物を食べようとすると、どうしても仲間と鉢合わせしてけんかになる。
だから、仲間がすでに占有している場所は避けて、別の場所で食物を探そうとするのだ。でも、あまり広く分散すると、肉食動物や猛禽(もうきん)類にねらわれて命を落とすおそれが生じる。仲間といれば外敵の発見効率が上がるし、自分がねらわれる確率が下がる。そこで、仲間と適当な距離を置いて食事をすることになる。
しかし、食物が限られていれば、仲間と出くわしてしまうことがある。そのときは、弱い方のサルが食物から手を引っ込め、強いサルに場所を譲る。
サルたちは互いにどちらが強いか弱いかをよくわきまえていて、その序列に従って行動する。それに反するような行動をとると、周りのサルがよってたかってそれをとがめる。優劣の序列を守るように、勝者に味方するのである。強いサルは食物を独占し、他のサルにそれを分けることはない。
サルの社会では、食物を囲んで仲良く食事をする光景は決して見られない。
けんかの種となるような食物を分け合い、仲良く向かい合って食べるなんて、サルから見たらとんでもない行為である。なぜこんなことに人間はわざわざ時間をかけるのだろうか。それは、相手とじっくり向かい合い、気持ちを通じ合わせながら信頼関係を築くためであると私は思う。
相手と競合しそうな食物をあえて間に置き、けんかをせずに平和な関係であることを前提にして、食べる行為を同調させることが大切なのだ。同じ物をいっしょに食べることによって、ともに生きようとする実感がわいてくる。
それが信頼する気持ち、共に歩もうとする気持ちを生み出すのだと思う。
ところが、前述した近年の技術はこの人間的な食事の時間を短縮させ、個食を増加させて社会関係の構築を妨げているように見える。自分の好きなものを、好きな時間と場所で、好きなように食べるには、むしろ相手がいない方がいい。そう考える人が増えているのではないだろうか。
でも、それは私たちがこれまで食事によって育ててきた共感能力や連帯能力を低下させる。個人の利益だけを追求する気持ちが強まり、仲間と同調し、仲間のために何かしてあげたいという心が弱くなる。勝ち負けが気になり、勝ち組に乗ろうとする傾向が強まって、自分に都合のいい仲間を求めるようになる。
つまり、現代の私たちはサルの社会に似た個人主義の閉鎖的な社会を作ろうとしているように見えるのだ。
昨年末に、和食がユネスコの無形文化遺産に登録された。今一度、日本文化の礎を見直し、和の食と心によって豊かな社会に至る道を模索すべきだと思う
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2014年8月10日 |
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2014年8月10日 07時07分
平和祈念式典で登壇を待つ被爆者代表の城台美弥子さん=9日、長崎市の平和公園で(梅津忠之撮影)
長崎は九日、被爆から六十九年の原爆の日を迎えた。長崎市の平和公園で営まれた原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で、被爆者代表の城台(じょうだい)美弥子さん(75)は、集団的自衛権の行使を容認した閣議決定を「憲法を踏みにじる暴挙」と批判した。
用意した原稿にはなかった表現で、「出席した政治家たちを見て、黙っていられなかった」と振り返った。
安倍晋三首相は式典後、被爆者団体との面談で閣議決定の撤回を求められたが、「国民の命と幸せな暮らしを守り抜く責任がある」とかわした。広島に続いて長崎でも、被災地の思いに応えることはなかった。
「今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙です」
田上富久(たうえとみひさ)市長の平和宣言に続き、「平和への誓い」を読み上げる城台さんの表情は厳しかった。
「日本国憲法を踏みにじる暴挙」のくだりは、事前に書いた原稿では「武力で国民の平和を作ると言っていませんか」となっていた。差し替えは、読み上げる直前に決意した。待機席で登壇を待っている時、来賓席に座る安倍晋三首相ら政治家たちの姿が目に入ったのがきっかけだった。
「憲法をないがしろにする政治家たちを見て、怒りがこみあげました」。式典後、やむにやまれぬ思いをぶつけた理由を打ち明けた。
一九四七年五月の憲法施行直後に発行された「あたらしい憲法のはなし」という教科書がある。城台さんは子どもの頃に読んで感動した。「憲法の素晴らしさが理解できた」。憲法を守りたい気持ちは強い。
六歳の時に爆心地から二・四キロ南東へ離れた自宅で被爆した。山が爆風と熱線を遮り、奇跡的に無傷で、家族も全員助かった。だが、同級生や友人たちは成人後にがんや心臓、脳疾患などで次々と命を落とした。
平和祈念式典に向け、遺族会メンバーから「平和への誓い」を読んでほしいと頼まれたのは昨年十二月。被爆者の中で比較的若い自分の責務と引き受け、原稿を書き進めた。
そして迎えた本番。「暴挙」の部分に続いて、「日本が戦争できるようになり、武力で守ろうと言うのですか」と問いかけた。これも、原稿にはないアドリブだった。
式典後の城台さんは、穏やかさを取り戻していた。「政治家の皆さんに、今日のことを少しでも覚えていてほしいという気持ちもあります」と振り返った。 (小松田健一)
◆「平和への誓い」抜粋
今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙です。日本が戦争できるようになり、武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではないですか。日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。
(東京新聞) |
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橋爪徹 @toruemu 8月3日
週刊リテラシー、今さら軽減税率を求める新聞の身勝手の解説は痛快だった。
確かに当時、大手新聞は翼賛体制かと思うほど8%増税を煽っていた。
反対してたのは一部の地方紙と赤旗くらい。記者クラブメディアの腐りっぷりがここにも現れているように思う。
上杉隆 / Takashi Uesugiさんがリツイート
tubOyaki_shiro @tubOyaki_shiro 8月2日
欧州は殆どの国が新聞の消費税を低くしている。
ただし、記者クラブもないw 天下りもない。金ももらってない。この「3無い」
プラス権力者の子供を縁故採用しなければ軽減税率も理解されるのでは?
#リテラシー |
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長崎原爆の日を前に、慰霊と平和の明かりに包まれた爆心地公園=8日夜、長崎市松山町
被爆地長崎は9日、原爆投下から69回目の「原爆の日」を迎えた。
来年の被爆70周年や核拡散防止条約(NPT)再検討会議の開催を控え、田上富久長崎市長は「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」で、核兵器廃絶への歩みを前進させるよう平和宣言で訴える。
また、集団的自衛権の行使を認める閣議決定に関し、不戦の誓いが揺らぐのではないかという国民の懸念に向き合うよう政府に求める。
台風11号が九州に接近しており市は8日、同式典について協議。会場の平和公園に設置済みだった大テントは、強風対策で撤収した。
9日の開場は午前8時半に1時間繰り下げ、献茶式など式典前行事は中止。雨天の場合、5千人分のレインコートを参列者に配布する。早朝、風雨で参列者の安全が確保できないと判断した場合、式典は中止し、平和宣言や被爆者代表の「平和への誓い」の読み上げは別途、検討する。
平和宣言では、核兵器を非合法化すべきだとの機運の高まりや、核保有国や「核の傘」依存国が非合法化に難色を示している状況を踏まえ、多国間の協議の場の設定を求める。また田上市長は、「(安全保障環境の)状況を示す表現」として、広島市が同宣言で言及しなかった「集団的自衛権」の文言を盛り込むことを表明している。
式典には過去最多の51カ国の代表や安倍晋三首相などが参列予定。式典終了後、被爆者5団体と安倍首相は市内ホテルで面会する。5団体は集団的自衛権の行使容認を批判する方針だ。
全国で被爆者健康手帳を所持する人は3月末時点で初めて20万人を切った。県内は5万269人、前年同期比2468人減。平均年齢は長崎市78・93歳、同市外79・99歳で、高齢化が一層進んでいる。 |
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(以下は2008年8月9日のエントリーの再掲載)
アメリカ軍の従軍カメラマンだったジョー・オダネルは長く自宅の屋根裏に封印したトランクを置いていた。ある契機により、彼はトランクを開いて、自分が撮影した原爆直後の長崎の爆心地とその周辺の日本人の写真を公表し始めた。彼はアメリカ国内で猛烈な批判を受けたが、それにめげずに各地で実態を話す事が自分に与えられた使命だとして行動した。
すでに放送されましたが、昨年亡くなったジョー・オダネルの息子が彼の遺志をついで活動を続けています。その番組の概要をNHK福岡のサイトから引用します。
この写真を含めて彼が撮影した写真はFlickrに掲載されています。」
「今、1枚の写真が注目を集めている。63年前、被爆直後の長崎で撮影されたもので、亡くなった幼い弟を背負い火葬場の前に立つ「長崎の少年」と題された写真だ。
写真家の名はジョー・オダネル。米海軍専属カメラマンとして原爆投下後の長崎・広島に入り、その破壊力や人体への影響などを記録するために7千コマの写真を撮影した人物だ。
事実を告発しようと、軍に隠れもう1つの私用のカメラで400枚の写真を撮影した。その1枚が少年の写真だ。帰国後、爆心地で目撃した被爆者の記憶に悩まされ、悲劇を忘れようと全てのネガを自宅屋根裏に封印したが、晩年、自身も放射能の影響で余命幾ばくもないことを知り、原爆の悲劇の真実を訴え始めた。
オダネルの死後も長男が引き継ぎ、父の写真をネットで世界に向けて発信し始めている。番組では、広島・長崎の体験を経た1人のアメリカ人写真家が、原爆の真実を伝えようと踏み切った思いを、残された写真や手記、音声テープからたどる。
また、ウェブ上で写真の公開を始めた長男の活動と、全米各地から集まる賛否両論のメッセージから、今のアメリカが抱える原爆・戦争に対する心情を描く。」
TBSのサイト「原爆の夏 遠い日の少年」から:
<ジョー・オダネルのコメント>
佐世保から長崎に入った私は小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目に入りました。男たちは60センチほどの深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広場で遊んでいる子供たちの姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意思が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。少年は焼き場のふちに5分か10分も立っていたのでしょうか?白いマスクの男たちがおもむろに近づき、背中の赤ん坊をゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気づいたのは、少年があまりキツくかみ締めているため、唇の血は流れることもなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去って行きました…。
3、ジョー・オダネルをもっと詳細に知りたい方はこちらへ。 |
2014年8月9日 |
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破壊された浦上天主堂(1946年1月7日撮影)
by Wikipedia
「人間は私の父と母のように、霧のように空中に消されていいものだろうか」
今から67年前の8月9日、両親を長崎の原爆投下で失った人の言葉です。映画「TOMORROW 明日」の冒頭にこの言葉がスクリーンに写しだされました。
以下は2006年8月12日にブログに掲載した映画「TOMORROW 明日」のレビューの5回目の掲載です。
1)子供たちが道路でチャンバラをしている遠景に日本人の修道女が二人歩いてくる。夜、逢引する場面の向うに墓地が見え、その中にいくつか十字架のお墓が見えている。そして殆ど終盤にマリア像が大写しされる。
見ていてそのことにすぐ気がついた。
キリスト教の日本における布教史の中では、特別な位置を持つ長崎。
その長崎をキリスト教国のアメリカが、広島に次いで人類に対する2番目の一般市民大量無差別虐殺のターゲットにした。
歴史で原爆を習い、また、江戸以前からの日本のクリスチャンの過酷な信教の歴史を知りだしたころ、アメリカ政府は天主堂がある場所を含めてなぜ長崎へ原子爆弾を投下したのか、自分は単純に不思議に思った。今もその疑問はそのままだ。
街の中に普通に日本で一番キリスト教が根づいている長崎の街と長崎のひとたち。
黒木監督もそのことが頭にあったのかなあと、そのことが気になりながら映画に見入っていった。
2)黒木和雄監督は先日、残念ながら早い死を迎えられた。その追悼のため戦争三部作と言われる作品の追悼上映が催され、その最初の上映が1988年製作のこの映画だった。
映画は長崎に原爆が落とされた昭和20年8月9日の前日、8日の長崎市民の一日を淡々と描いている。
肺浸潤のため徴兵されなかった工員(佐野史郎)と長崎医大の看護婦(南果歩)のささやかな婚礼。夫が出征しているその姉(桃井かおり)の出産。その妹(仙道敦子)と医大生との恋愛。そしてその両親の1日。近所の市電の運転手夫婦の日常。捕虜収容所のB29の乗員たちの生活も。
皆にとって、7日の昨日もそうであり、9日の明日もそのように続いていくはずだった。
女学生の妹が学校から引率されて工場に向かう9日の朝、道の途中で白雲のわく長崎の空に現れた米軍機をふと見上げた次の瞬間、画面は白と黒だけに変わり、真っ白な灼熱の空気が強く流れてくる。
そこで映画は何も語らず終わる。
この映画は始まるとすぐ、画面に文字だけが出た。
「人間は私の父と母のように、霧のように空中に消されていいものだろうか」
(長崎の被爆体験者の証言から)
3)結果的に制作年度の若い順に「父と暮らせば」、「美しい夏キリシマ」、「TOMORROW/明日」という逆の順番で3本を見たことになった。どの映画も二十歳前の黒木監督自身の戦時体験が映画を作るモチベーションになっていて、見る順番は関係なくどれも胸のどこかに沁みこんでいく。
人間は突詰めれば,他者に対する想像力を育て、想像力を持つ者だけが人間となり、それを持たぬもの、持てぬ者は人間の形をした一哺乳類のままのような気がするが、黒木監督はきっと人間の行動に感度の高い想像力があり、自分が生まれた時代に意味を求め、生きる意味をこれらの映画作りに託したのだと思う。
何事もなく過ぎていくと思っていても、次の日には何が起こるかわからない。それは自分の明日にも。
こんなことが通るようではおかしい、変だと言うことを、自分がそのままにしておくとその結果は必ず間違いなく誰の上にも例外なく来る。
黒木和雄と言う人は日本人だけではなく、地球上の人間にそういう強いメッセージを送り続けて生きてきた、ような気がする。
☆2013年8月9日のエントリー再掲載。 |
2014年8月9日 |
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2014年8月8日 朝刊
画面クリックで拡大。
広島市で六日に開かれた被爆から六十九年の平和記念式典で、安倍晋三首相が行ったスピーチの冒頭部分が昨年とほぼ同じ内容だったことから、インターネット上で「使い回し」「コピペ(文章の切り貼り)だ」と批判を集めている。
安倍首相は「人類史上唯一の被爆国としてわが国には『核兵器のない世界』を実現していく責務がある」などとあいさつ。読み上げた文章を昨年と比較すると「六十八年前の朝」が「六十九年前の朝」となり、「せみ時雨が今もしじまを破る」という表現がなくなった以外は冒頭三段落が一字一句同じだった。今年は四十三年ぶりに雨の中で式典が開かれていた。
後半部分は、いずれも「軍縮・不拡散イニシアチブ」の会合や原爆症認定について触れているが、表現は異なっていた。
東京都世田谷区の上川あや区議が、テキスト比較ソフトを使って両者の冒頭四段落を並べた写真を七日未明、短文投稿サイトのツイッターに投稿。五千人以上が転載した。
広島県原爆被害者団体協議会(金子一士理事長)の大越和郎事務局長(74)は「厳粛な慰霊碑の前で前年と同じあいさつをするとは、広島や被爆者、平和を軽視している証左だ。
それが底流にあるから集団的自衛権の行使容認を閣議決定したのではないか」と話した。
☆本件に関し記者クラブ所属のマスコミの記者が首相にどんな質問をするのか楽しみだ。
もしなぜ同じスピーチをしたのか問いたださなければ、記者クラブ所属のマスコミ各社は「政府と官僚の幇間―タイコ持ち」を自分で証明することになる。 |
2014年8月9日 |
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放射線被害、過小評価と 投下4カ月後に英博士 公文書で判明
1966年10月5日、ロンドンで記者会見するウィリアム・ペニー博士(PA=共同)
【ロンドン共同=半沢隆実】英国の核開発を主導し「原爆の父」と呼ばれ、米国の原爆開発にも関与したウィリアム・ペニー博士(1991年死去)が日本への原爆投下から約4カ月後、「米国は放射線被害を(政治的な目的で)過小評価している」と強く批判していたことが10日までに、英公文書館に保管されていた文書で分かった。
博士は独自に「殺傷要因」を特定するため、英科学者を米国の核実験に派遣する必要性を訴えていた。
米国は当時、放射線による悲惨な被害実態が世界に知られることを警戒、厳しい報道規制を敷いていた。文書は、米国が最重要同盟国で原爆を共同開発した立場にある英国に対しても、核兵器の本質を隠していたことを示している。
文書は原爆被害を調査した英政府機関、医学研究評議会(MRC)のファイルの一部で、45年12月4日にMRC関係者が作成。「ペニー博士は(広島と長崎で)多くが放射線によって死亡したことを示す相当な証拠があると判断している」と記されている。
ペニー博士はさらに「米国はこの見方を軽視し、あらゆる被害を爆風と熱に起因させようとしている」と批判。「この(放射線被害の)問題は、米国で最も重要な政治問題になろうとしている」と背景を指摘した。
爆風効果計算の専門家であるペニー博士は英国での研究を経て、原爆開発を進める米国の「マンハッタン計画」に参加。長崎では観測機から投下を目撃し、その後、広島と長崎を現地調査した。
45年12月13日にロンドンで行われた専門家会合で博士は「投下直後の放射線照射により、多くの人々が死に続けたことに疑いの余地はない」と指摘した。
また、米国提供の情報は不十分で、次の原爆実験に英側も参加し、放射線被害について「最大限の情報」を収集することを医療専門家らに呼び掛けた。MRCの記録などによると、英科学者らは博士の提案通り、46年7月にビキニ環礁で行われた実験観測に参加した。
◎人体影響否定し情報操作 米、非人道性への批判警戒
【ロンドン共同=半沢隆実】「原爆の父」と呼ばれた英国のトップ科学者の1人、ウィリアム・ペニー博士に広島、長崎での放射線被害の過小評価を批判されていた米国は、戦後長い間、人体への影響を完全否定し情報操作を試みた。
原爆の非人道性を象徴する原爆症の存在は、米国への批判増幅の引き金となりかねない上、軍事的に重要性を増していた被害データの独占を狙ったためだ。
「負傷していない人々も『原爆病』としか言いようのない未知の理由で、不可解かつ悲惨に亡くなり続けている」。
原爆投下から約1カ月後の被爆地の惨状を、英紙デーリー・エクスプレスはこう報じた。米紙ニューヨーク・タイムズも「原子爆弾はいまだに日に100人の割合で殺している」と状況を伝えた。
しかし、米国の原爆開発計画「マンハッタン計画」の副責任者、ファーレル准将は、東京での記者会見で一連の報道を完全に否定する。
被爆地の惨状を無視するように「広島、長崎では死ぬべき人は死に、9月上旬現在、原爆放射線のため苦しんでいる者は皆無だ」と言い切った。
米政府はさらに原爆が地上ではなく上空で爆発したために、危険な核分裂物質が地上に影響を及ぼさなかったと主張、これが政府の公式見解となっていく。
間もなく報道規制を強化し、投下から約1カ月後に長崎に入ったシカゴ・デーリー・ニューズ紙が「外傷のない男女、子供たちが毎日のように死んでいる」と報じた記事は連合国軍総司令部(GHQ)の検閲で公表を差し止められた。
冷戦前夜の当時、米政府はソ連との軍事的な対立を不可避と判断。軍事バランスの鍵を握る核兵器開発を進める上で、原爆使用が敵国民、場合によっては自国兵士に与える被害のデータは戦略的にも重要だった。
こうした事情が、人体への影響に関するデータを独占し、同盟国の科学者にも事実を 隠蔽 (いんぺい) した背景にあった。
(共同通信)
2013/08/11 18:01 |
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2014.08.08 03:00:00
上級生らから体毛を燃やされるなどの暴行を受けたり、反省文の作成を命令されたりしたとして、防衛大学校(横須賀市走水)2年の男子学生(19)と両親が7日、傷害と強要の疑いで上級生ら8人に対する告訴状を横浜地検に提出した。
告訴の対象としたのは、全寮生活で同部屋だった4~2年生と、元学生の計8人。
告訴状によると、上級生らは、男子学生に除菌アルコールをかけた上で体毛にライターで火を付け、3週間のやけどを負わせた。さらに、男子学生の顔写真の周りを黒いテープで囲って遺影のように加工し、携帯電話の無料通話アプリ「LINE(ライン)」で流すなどして、ストレス性障害を発症させた。また、反省文を手書きで繰り返し書かせた、としている。
男子学生は暴行などの被害で抑うつ状態になり、福岡県の実家に戻り5月から病欠中。刑事告訴後、取材に応じた男子学生の母親(49)は「ほかにもいじめに苦しんでいる学生はいる。防大は本気で改善してほしい」と訴えた。
同大総務課は、刑事告訴について「内容を把握していないのでコメントは差し控える」とする一方、「どうような理由であっても不当に精神または肉体的な苦痛を与える行為はあってはならない」とコメントした。今月4日付で校長をトップとする臨時の調査委員会を立ち上げ、調査を行っている。
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東京都議会が6日公開した昨年度の政務活動費で、都議73人が新年会2183件に出席し、計1315万円を使っていた。「意見交換をした」とするが、滞在する時間が数分という事例もあった。飲食を伴う会合もあり、新年会への公金の支出に疑問を示す専門家もいる。
収支報告書や領収書で1~2月に「新年会」「賀詞交歓会」と記された支出を集計した。1件あたり500円~1万円で、都議会が支出上限に定める1万円は586件あった。
出席回数が最も多いのは76件(計41万5500円)で、別の2人の66件(33万9千円と32万8千円)と続いた。同じ日に複数の新年会に出たのは69人。最多は7件で、6件3人、5件8人だった。会派別では自民が52人で1597件(計976万円)、公明が20人で570件(328万円)、無所属1人が16件(10万円)だった。 |
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村民がいなくなった飯舘村の現在
2014.08.07(木)
フクシマからの報告を続ける。前回に続いて、福島第一原発事故による高濃度の汚染によって、避難で無人になった福島県・飯舘村の現況の話をする。
前回は、田んぼに水を入れたら、モリアオガエルが産卵に戻ってきたという話だった。
2011年3月15日、福島第一原発事故から流れ出た大規模な放射性プルームによって汚染された阿武隈山地は、人間が生態系の一部として共存する「里山」だった。人がいなくなって、カエルは産卵の場所を失った。
今回は、その里山が原発事故で何を失ったのか、もう少し詳しく話をする。そして、その里山に除染作業が入ったとき、どんな影響があるのだろう。地元の農家の人の話を聞いた。
汚染地域でも立ち入りはできる不思議
飯舘村小宮地区の農場で野菜の栽培を続け、その線量を測定してインターネットで公開している伊藤延由さん(70)の農場に行った。
避難で人がいなくなった田んぼには、田植えの時期になっても水が入らなかった。そのためカエルが産卵の場所を失った。伊藤さんが田んぼに水を入れたら、モリアオガエルやツチガエルが産卵に戻ってきた。
そんな話を前回書いた。
「目黒さんが帰ってるみたいだから、寄っていきましょう」
白い軽トラを運転する伊藤さんがそう言った。目黒さんは隣の農家だ。モリアオガエルのタマゴを見にいった帰りである。この山あいの集落では「隣の家」は歩いていくのがしんどいほど離れている。軽トラで行く。
小宮地区は「立ち入りはできるが、住んではいけない」区域に指定されている。だから、ときどき村人が掃除や犬猫の餌やり、持ち物を取りに帰ってきている姿を見かける。
考えてみると、放射性物質で汚染された一帯なのに、不思議な光景だ。日本の法律が原発災害の放射性物質が20キロを超えて飛んでいくことを想定していなかったためである。
20キロ圏内が強制避難・立ち入り禁止になっていた時も、その外側(原発から30~50キロ)にある飯舘村は、汚染度は内側と同じくらいなのに「住んではいけないが、立ち入りはできる」という不思議な扱いだった。
だから住民は村外に避難したあとも、宿泊しなければ自分の家に帰ることができた。今でも基本は変わらない。伊藤さんの農場は、原発から33キロだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
「除染作業の説明をしたい、という役人が来たんですが」
伊藤さんが苦笑した。
「『自分がやろうとしていることの意味、分かってる?』と聞いたら黙っちゃった」
それは、そうだろう。県や国の官僚に「何が失われるか」なんて、分からないだろう。
全文はこちら。 |
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8月6日 19時22分
東京電力福島第一原子力発電所の事故の検証で、3号機では、これまでの推定より早く燃料が溶け出し、大部分が原子炉から格納容器に溶け落ちたとする新たな解析結果がまとまりました。専門家は、今後の燃料の取り出しがより難しくなるおそれもあると指摘しています。
3年前の原発事故を巡り、東京電力は未解明の問題の検証を続けていて、6日、一部の検証結果を公表しました。
このうち、3号機では、バッテリーで動いていたHPCIと呼ばれる緊急用の原子炉の冷却装置を事故の2日後の3月13日の未明に運転員が手動で停止し、ポンプによる注水に切り替えようとしましたが、うまくいかず、原子炉の冷却の遅れにつながったと政府の事故調査・検証委員会で指摘されました。
これについて、東京電力が原子炉の圧力などのデータを分析したところ、HPCIは手動で停止するより前の3月12日午後8時ごろには機能を失ったとみられ、解析の結果、これまでの推定より5時間余り早い3月13日の午前5時半ごろから燃料が溶け始めて、翌14日の午前7時ごろには原子炉の底を突き破り、大部分が格納容器にまで溶け落ちた可能性があると分かったということです。
これまで、3号機で格納容器に溶け落ちた燃料は、一部と考えられていました。
また、今回東京電力は、消防車を使った注水が行われた2号機の原子炉内で燃料と水が反応して水素とともに大量の熱が発生し、メルトダウンに拍車をかけたという新たな解析結果をまとめました。
東京電力は、原子炉の水位が下がって燃料がむき出しになるような深刻な事態になった場合、迅速に十分な注水ができなければ、かえってメルトダウンを進めてしまうことを示しているとしています。
専門家「廃炉作業への影響大きい」
東京電力が行った新たな解析結果について、原子炉の解析に詳しいエネルギー総合工学研究所原子力工学センターの内藤正則部長は「今回、東京電力は、ほぼ100%の燃料が圧力容器(原子炉)を突き破って下に落ちたとしているが、大きめの評価で最も深刻なケースとみるべきだと思う」と話しています。
そのうえで、今後予定されている溶け落ちた燃料の取り出し作業については、「圧力容器の下には円筒状のコンクリート製の部分があり、突き破って出てきた燃料がこの筒に収まっていれば、その中で回収すればよいが、今回の解析のように溶け落ちた量が多く、筒の隙間から格納容器の広い範囲に出ているとすれば、取り出す手順や方法が複雑になるおそれがあり、廃炉作業への影響は大きいと思う」と話しています。 |
2014年8月9日 |
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2014/08/08 18:46
厚生労働省は8日、外国人技能実習生が働く事業所に対する2013年の立ち入り調査で、対象となった2318事業所の79・6%に当たる1844事業所に、何らかの労働基準関係法令違反を確認したと発表した。
政府は国内の労働力不足を受けて、実習生の受け入れ拡大を目指している。12年の2196事業所より減少したものの、担当者は「違反率は依然として高く、労働条件には問題がある。法令周知や積極的な指導を実施したい」としている。
厚労省によると、違反内容は、業務の安全配慮が不十分といった労働安全衛生法違反が1142事業所で最も多く、法定労働時間の超過などが692事業所。
☆実習制度の名目で雇った外国人従業員を安価な労働力として使い倒す雇用者たち。
実習だと思って来日した人たちも惨めだが、今様の奴隷制度を日本政府が運用しているのは近代国家としてもやはり惨めだ。 |
2014年8月9日 |
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官僚国家日本・公務員天国日本 |
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慰安婦は「自発的に応募した」「自由意志だった」「強制ではない」、さらには軍や警察は「違法な業者を厳しく取り締まっていた」等々、慰安婦問題を否定する人々によって熱心に宣伝されているデマがありますが、そうした人々が無視している資料に、元日本軍将兵・軍属が手記や証言のなかで慰安婦に言及している口述資料というものがいくつも存在します。
それら口述資料*1を用いて個々の事例を考察していきます。
以下、 引用文の中略には「……」を入れています。強調、改行は引用者によります。
最初に紹介する証言は、秦郁彦氏が著書『慰安婦と戦場の性』のなかで「信頼性が高いと判断してえらんだ」もののひとつです。
■第五十九師団(済南駐屯)の伍長・榎本正代の証言
場所:中国中部の山東省
続きはこちら。 |
2014年8月9日 |
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2014年08月08日 10時08分
富山検察審査会の議決に関して公表前に報じられた記事をめぐり、審査員経験者でつくる任意団体「富山検察審査協会」などは7日、北日本新聞社(富山市)の取材・報道や審査会関係者による情報提供は検察審査会法違反(秘密漏えい)などに当たるとして、富山県警に告発状を提出した。
告発対象となったのは、北日本新聞社と執筆したとされる同社の記者、氏名不詳の検察審査会関係者。
同審査会は、2010年に起きた富山市の会社役員夫婦殺害事件で不起訴(嫌疑不十分)となった元県警警部補について、今年7月17日付で不起訴相当と議決し、翌18日に公表。
同社は同日付の朝刊で「審査会が17日、開かれた」「起訴相当の判断には至らなかったとみられ、近く公表される見通し」などと報じた。
同法は、検察審査会議は非公開と定め、職務上知り得た秘密を漏らした場合の罰則規定を設けている。
告発状は、審査会関係者が非公開の議決に関する情報を漏らしたのは「(審査員の)判断の公平性に支障を来す行為」で、同法違反に当たると主張。これを受けた報道は同法違反と国家公務員法違反(教唆)に当たるとしている。県警は受理の可否を検討する。
7日に記者会見した同協会の広田賢治会長は「(審査会での)自由な議論のため、審査員らには守秘義務が課されている。守られなかったことに警鐘を鳴らしたい」と語った。
北日本新聞社は「記事の内容は、国民の知る権利に応えるための通常の取材活動で得た情報であり、秘密漏えいの教唆には当たらない。今後とも迅速で正確な報道に努める」とのコメントを出した。
Copyright © The Yomiuri Shimbun |
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相馬中央病院
内科医 森田知宏
2014年8月6日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
私は今、相馬市にある相馬中央病院で勤務している内科医である。昨年は、研修医として南相馬市立総合病院で3ヶ月ほど研修し、今年の4月から相馬に赴任した。大阪出身で、1995年には阪神大震災に遭った。
幸い、家屋や家族に被害は出なかったものの、家中に散らばっていた皿の破片と、その秋にイチローを擁するオリックスが「がんばろうKOBE」を合言葉に優勝したのを覚えている。
地震という共通点はあれども、私は福島には縁もゆかりもない。そこで、私が相馬に来た理由を考えてみたい。
一つ目は、土地の魅力である。私が相馬地方に興味を持ったのは東日本大震災がきっかけだ。2011年の夏、飯舘村で行われた健康診断の学生ボランティアとして、私は初めて相馬地方にやってきた。そこで、相馬地方の歴史に衝撃を受けた。現在まで累々と続く相馬家の歴史は、野馬追に代表されるように相馬地方の生活に色濃く反映されている。
相馬家の家来の子孫がいまも馬を飼っていたり、農家にも「うちは○代前にこの土地を開いた」と語る方がいる。大阪の現実主義のなかで育てられた私にとって、この価値観は非常に面白かったし、昔の城下町を彷彿とさせる街並みは見るだけで面白い。
二つ目は、人の魅力である。私は、南相馬では南相馬市立総合病院の金澤幸夫院長、及川友好副院長にお世話になった。
お二人とも臨床医として大変尊敬できる方々であり、震災当時も卓抜したリーダーシップを発揮された。放射線被爆に怯える市民のために内部被曝線量測定を行う、10年後の相馬地方のために南相馬市立総合病院で研修医を育てるなど、混乱期を前向きに切り抜けてきた方々である。
一方、相馬市には立谷秀清市長がいる。私の勤務する病院の理事長でもある。震災直後から、答えのない問題に次々と適切な政治的判断を下して住民をパニックから救った方である。
「震災後、体調を崩して亡くなる人をゼロにしなければならない」という課題を掲げ、コミュニティ形成のためにデザインされた仮設住宅や、2011年夏から行われている仮設住宅の住民検診はその一端である。
相馬では他にも多くの方が交流している。教育関係者、物理学者、医療関係者などが入り混じる交流から、業界を飛び越えた企画が次々と実現している。近くで見ていれば、その交流の渦に入りたいと思うのは当然だろう。
最後に、医師としての成長だ。私は相馬市内で最年少の医師であるが、主治医として、他の医師と同様のことが要求される。このプレッシャーの中、目の前の患者について勉強することは非常に有意義である。
さらに、相馬中央病院には、分子生物学者の加藤茂明先生が来ている。世界のトップレベルの論文をいくつも書いている先生が、私のあいまいな質問に対して本質的な答えを下さる。勉強する環境としても本当に恵まれている。
相馬地方の人口構成は日本の20年後に相当すると言われている。つまり、ここで起きる問題は、日本の将来に起きるものと同じと言える。先進的な対応が必要な状況が続くが、それが近いうちに解決できるかもしれないという期待を抱かせるのも相馬地方の魅力と言えよう。
以上、相馬地方の魅力について述べた。私は、相馬地方での学習は、都内の一流病院の研修に勝るとも劣らないと考えている。さらに、この魅力は、内容の差こそあれどんな地域にも存在するはずである。本稿が、その地域でのやり方を生み出すヒントになればと願う。
【略歴】
森田 知宏
2012年3月東京大学医学部医学科卒業。2012年4月より亀田総合病院にて初期研修。
2014年5月より相馬中央病院 内科医として勤務中。
引用元。 |
2014年8月8日 |
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