1)香港空港のトランジットルームで (日本語ってこんなにきれいな・・)
昭和50年代のある年、香港空港で乗り継ぎのため待合室にいました。
その時、70歳少し前くらいに見える女性から「日本の方ですか?」と日本語で声をかけられました。
「そうです」と答えると、懐かしそうに、
「東京もすっかり変わったのでしょうね。 わたくしは戦争前に東京の女学校に行っておりました。
現在は台湾の南部の町で暮らしていますが、久しぶりに日本の方とお話をいたしました。
今回の旅行は、シンガポールの親戚を訪ねました。今はその帰りです。」と言われました。
時間が来て長くお話できませんでしたが、節度のある 美しく格調の高い話し方でした。
小津監督の「東京物語」などで原節子が喋る日本語の世界以上にも思えました。
わずかな時間の出会いでしたが、この台湾の一女性の生きてこられた道筋や現在の生活までおもわず想像し、いまだに忘れられない一人です。
2)グラスゴーのステーションホテルで。
昭和50年代のある年、出張でスコットランドのグラスゴーへ行きました。夕方、仕事がすんで部屋に戻るとメイドさんが魔法瓶の水の補給に来てくれました。
ほっぺたの赤いまだ少女のような人でした。
用事が終わったあと、何か話しかけたいそぶりでドアのそばにたたずんでいるので、「なにか?」と声をかけると、
はにかんだ笑顔で「どこから来たのですか」と言いました。東洋人は珍しいのでしょう。
日本からと答えると、
「遠い遠いところから来たのですね、私は田舎から出てきて家族と離れて、スコットランドで一番大きな都会に勤めることが出来たけど、
きっと一生ロンドンまでも旅行することはないと思います。このようにあちこち旅行するのですか?」と言いました。
仕事で時々外国へ行っていると話すと、
「私には想像も出来ません、もしそんな事がいつか出来たらどんなにいいでしょう」と窓の外の夕暮れの空にふっと視線を向けました。
この僅かな何分かの彼女との会話のおかげで、通り過ぎの身にグラスゴーにも日本と変わらぬ人達が暮らしているんだなあと、
今でも地名を見たり聞いたりすると、街並みとあの少女のことを思い出します。
* 画像はインターネットから借用。阿智胡地亭が現地に行った当時に撮影したものではありません。